日本では、ブラック・ミュージックが隆盛と思い込まれているアメリカのセールス・チャートだが、実は現在、インディ・ロック/ポップが近年見られなかったほどの人気を獲得している。そんな中、ソロ・アーティストとしては最も熱い視線を浴びているミュージシャンが、シンガー・ソングライターのSufjan
Stevens (スフィアン・スティーヴンス)だ。複雑で緻密に練り上げられ、多種多様な楽器を用いた壮大なオーケストラル・ポップは、他を圧倒する輝きを放っている。そんな彼は現在、無謀とも言えるようなビッグなコンセプトに取り掛かっている。それは
「アメリカ50州をテーマにして、それぞれのアルバムを作る」 というものだ。発表済みのアルバムは 『ミシガン』 と 『イリノイ』
だが、その企画が果たしてどのように展開していくのかが誰も想像できないところも、期待されている所以である。
そんなスフィアン・スティーヴンスが、待望となる初来日公演を行った。東京の会場は、渋谷のクラブ
クアトロ。チケットはもちろんソールド・アウトだ。この日を待ちに待ったファンが詰め掛け、フロアはギュウギュウの状態。年齢層は20代後半〜50代あたりで、観客の中には、著名なベテラン・ミュージシャンも数人見受けられた。いかにも音楽に精通したリスナーが勢ぞろい、といった雰囲気だ。
7時の開演時刻。今回、スフィアンのバック・メンバーでもある女性アーティスト 「MY BRIGHTEST DIAMOND」 がオープニング・アクトを務めた。ベーシックなトリオ編成ながら、オペラチックな歌唱とアヴァンギャルドな演奏は、スフィアン待ちの観客をも呑み込む個性に溢れており、会場を暖めるには十分だった。そして、スフィアン本人も立ち会う中セッティングが行われ、8時頃、そのステージは幕を開けた。
バック・メンバーは、計5名のホーン隊を含む総勢9名。サックス奏者は、ライヴの最中に大活躍を果たすことになる、日系人のヒデアキ氏だ。
シンフォニックで緻密、かつ変拍子や変調を多用したスフィアンの楽曲がライヴではどのように再現されるのかが気になるところであったが、それは杞憂に過ぎなかった。スフィアンがギターを爪弾き始めた時からその音世界はまぎれもなく彼そのもの。そこにバック・メンバーの演奏や女性コーラスが加わりサウンドが重厚さを増していくと、カラフルに、しかも壮大でありながら軽やかに場内へ響き渡る。ヴォーカルは囁きに近いものの、むしろ力強い存在感があり、心を強く震わせる。
スフィアンの楽曲は静と動のコントラストが激しいものが多いが、その音の配置は見事であり、全ての楽器がそれぞれ埋もれることは無い。いかに計算されたアレンジであるのかが、生で演奏されることによって伝わってくる。スフィアン本人も楽曲毎に、ギター、ピアノ、バンジョーと楽器を持ち替えるのだが、そうしたマルチな演奏力と知識があるからこそ、そのような完成されたアレンジ/ソングライティングが可能なのだろう。曲によっては即興演奏も加えられており、その際はホーン隊の活躍が目覚しかった。実は彼らの数名は、翌日に行われたRufus
Wainrightのライヴにも参加していたらしいのだが、その人気振りからも実力は折り紙つきだ。
また、メンバー全員の衣装は、全て統一。スフィアンは、蛍光板が付いた光を放つベスト。バック・メンバーは無地のベスト姿で、途中それを脱ぐと、多色使いのレインボーTシャツに。サウンドを表現したかのようなそのカラフルさは、目にも楽しい演出であった。さらにはフラフープのダンサーが登場したり、ファンにはお馴染み、全員が背中に羽根を着けて演奏するなどのエンターテインメントとアート精神に溢れたパフォーマンスが、ステージに彩りと崇高さを与えていた。
また、スフィアンのMCをホーン隊のヒデアキ氏が通訳するのだが、言ったことのほとんどを省略してしまう (かなりスベっているから、らしい/笑)
その通訳が会場に大きな笑いを起こし、ライヴ中におけるひとつの楽しみとなっていたのも印象的だった。
『イリノイ』、『ミシガン』 の代表曲はもちろん、日本では未発売の 「Seven Swan」 なども含め、演奏された楽曲のヴォリュームは十分。特に
『イリノイ』 に収録の 「Concerning the UFO sighting near Highland, Illinois」
や、「COME ON! FEEL THE ILLINOIS」 などでは、観客からも大きな歓声が。オーディエンスのほとんどは、一音も聴き逃すまいとして熱心に集中してたが、同時に心の底から興奮している様子も伝わってきた。
アンコール1曲を含め、演奏時間は2時間弱。非常にビッチリと繰り広げられたが、冗長な印象は全く無し。「ロック/ポップスの未来」
を我々にまざまざと見せ付けるような、素晴らしいステージであった。フォークやカントリーといった非ロックなルーツ音楽を取り入れ、アメリカの原風景を描き出そうとしている彼がむしろロックの未来を表現出来得るのは、ロックに対する偏愛が成せるのではなく、逆にそのようなポップスへ対する一定の距離感と客観性を持っているからなのではないだろうか? 結果として未知なるポップスを誕生させていることは、まぎれもなく確信犯であり、知能犯なのだ。アンチこそがロックのテーゼであるとしたら、常識に縛られず、
「50州シリーズ」 という途方も無い計画を成し遂げようとしているスフィアン・スティーヴンスこそ、今最もパンクで、ロックな存在なのかもしれない。
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